創業者 野澤一郎
栃木県河内郡東汗(現:上三川町本郷)で自作農を家業とする旧家に父亀吉、母ヨシの長男として生まれた一郎は、本郷小学校(現:本郷中学校)、真岡中学(現:真岡高校)を経て、明治39年 東京高等工業学校(現:東京工業大学)機械科に入学した。
大正3年11月21日、27歳の一郎は、日本昼夜銀行神田支店支配人、西田音吉四女 喜美穂と結婚した。
母校である真岡高校の校庭には、野澤一郎の胸像があり、今も後輩たちを見守っている。
栃木県教育委員会編・道徳教育指導資料「ふるさと とちぎの心」には、一郎が幼い日に母から聞かされた「ねずみ観音の思い出」」が収録されている。
昭和16年版発明年鑑附録の発明年表では、ダイヤモンドトラスは当時ディーゼル機関等と並ぶ大きな発明であった。
月島の本社工場(大正12年)。この後、関東大震災が発生、月島地区は火災により焼け野原となるが、この火災は一郎が「燃えない柱を作ろう」と鉄柱の開発を加速させるきっかけともなった。
昭和13年、ダイヤモンドトラスの発明により、一郎は恩賜記念賞の表彰を受けた。
一郎は母校である本郷中学校の校歌を作詞しており、本郷中学校には一郎自筆の歌詞が残っている。