創業者のご紹介 〜 野澤 一郎伝 〜

第1章 上三川町出身の発明家・事業家

創業者 野澤一郎

創業者 野澤一郎

(株)巴コーポレーション(本社:東京都中央区)の創業者、野澤一郎(1888~1978)は、明治21年、栃木県上三川町本郷(旧本郷村東汗)で、父・亀吉、母・ヨシの間に生まれた。

一郎は、本郷小学校(現:本郷中学校)に入学、高等科を終え旧制真岡中学校(現:真岡高校)に進んだ。さらには東京高等工業学校(現:東京工業大学)に進学し、卒業後7年目(1917年)に巴組鐵工所を創立した。

全国の体育館や倉庫、格納庫で用いられている空間構造「ダイヤモンドトラス」をはじめ、一郎は数多くの発明を行い、日本の科学技術に多大な貢献をしてきた。

幼い頃の一郎は体が弱かった。6歳で小学校に入学するも勉強が嫌いで、学校から家に逃げ帰った事もあったという。

一郎が後に記述した「母のおもかげ」には、狐にばかされた話が載っている。病中の父に食べさせるドジョウを笊に持ち子供を背負った母が通いなれた道で迷い、半日も彷徨、躓いた拍子に景色が変わり、そこはいつも通る「ねずみ観音」の木立の前であった。笊のドジョウは四分の一以下になっていた ― という話だ。

背負っていた子供が一郎で、母から何度もその話を聞かされていた一郎は、母の亡き後にその木立を通る時にはこの話を思い出し、熱い涙がにじみ出たという。

この逸話は、栃木県教育委員会編・道徳教育指導要領「ふるさととちぎの心」に収録されている。

真岡中学校には2回生として入学したが、家から同中まで鬼怒川を渡り徒歩で通った。その経験を生前に同中で講演しているが、それを収録した白布丘ニュース37号(昭和39年)によると「幾里という道を、わらじで本校に通った。今、こんなに元気なのは、学生時代の根性が現在の私を作り上げているのです」と述べている。

一郎は、真岡中学5年の時に、家業である養蚕の手伝いから「桑扱機器」を考案して実用新案を得ており、発明・考案の素質を発揮していた。養蚕農家として成功していた亀吉は、長男である一郎に中学卒業後は養蚕の専門学校へ進む事を勧めたが、一郎は亀吉を説得して高等工業学校進学の夢を叶えた。明治39年、郷里の期待を一身に背負い、一郎は単身上京、東京・蔵前の東京高等工業学校(現:東京工業大学)に入学した。一郎は、ポケットに常に小さなノートを忍ばせ、何か発見があるたびに書き留める等発明の力を養う努力を怠らず、細心に物事を観察する姿勢を培った。

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