創業者のご紹介 〜 野澤 一郎伝 〜

第4章 空拳自立献燈しての誓い

句碑除幕式にて

一郎の出身地、栃木県河内郡上三川町東汗(ひがしふざかし)には神仏混淆時代の御社がある。寺院は仁王山満願寺、別名を汗(ふざかし)薬師様とも呼ばれ、広く人々の信仰を集めている。境内の「満願寺かや」は、上三川町天然記念物であり、栃木県名木百選となっている。

神社は高龗(たかお)神社といい、この地の鎮守様、御産土神(うぶすながみ)様である。この神社の境内の一角に、野澤一郎が建てた句碑がある。句碑は翡翠製で「夢多き頃の名残や燈の文字」と刻まれている。裏には「私の29歳の時に空拳自立献燈して神に誓いをたてた、今はその名残を句碑に託し「野澤一郎」の文字が見える。


同碑は1970(昭和45)年に建てられた。碑の横には平成6年の改修工事における説明版がある。それによると、一郎は碑を建てる50余年前、青雲の志を抱き、出郷(村を出て)10年を記念して同神社に献燈して誓いを立てた。大谷石で造られた献燈は2基で、1917(大正6)年11月に奉納された。一郎は同年10月6日、東京市芝区琴平町に巴組鐵工所を設立しており、企業家として出発するに際して、郷土の神社を訪れて並々ならぬ決意を神に誓った。句碑の裏に記された「空拳自立献燈」には、助けを借りずに独力で物事を行うという意味が込められており、一郎が大正6年当時の奮い立つような意気込みを思い出して詠んだものである事がわかる。


ちなみに一郎の献燈は、高龗神社以外にも、県内では日光二荒山神社の参道、県外では伊勢神宮の外宮にも存在する。


巴組鐵工所は送配電用鉄塔・鉄柱の開発等で成長し、1932(昭和7)年には立体構造建築「ダイヤモンドトラス」の発明・実用化を実現する。さらに「無足場式骨組法」の発明等で実績をあげ、成長を続けた。


一郎は発明家として「発明」に関して様々に語っている。

発明には難易両道があり、両道にもそれぞれ表・常・裏があると言う。意味の理解は難しいが、野澤一郎追悼誌「ともえ」には次のように説かれている。

表道は、充分な素養を蓄え、さらに修養を積み重ねれば、その物の外により深い高遠なものを見出す事ができる。

常道は先人の築いてくれた土台から首を出したら発明ということらしい。カタツムリが竿頭に上って角を出したら、その角の長さだけ立派な発明だという事である。

裏道は従来ある物をよりよく、よりたやすく作ること。誰もができる味噌汁を誰にも出来ぬ味に作る事だと比喩される。


また、発明には自由な発想が必要だとも説いている。

「空想は、時には人生の潤いとなり、時には進化の母体となる。人生にはなくてはならぬものの一つに空想がある。古の書道集にも『梅が香を桜の花に香らせて柳の枝に次ぐよしもがな』と見える。梅が香の気高さを桜の花にも欲しくなり、優雅な柳の枝に咲かせてみたくなる」という事である。


一郎は信仰心を持った人でもあった。「法華経の神髄」という本多日生大僧正の著に関して「十余年前自分がこの書によって目覚め法悦に良くした一端を記して」と述べている(昭和10年)。また、自著「牧童の鞭」では「神と人の関係、絶対者と我との交渉、ここに真の宗教がある」と述べ、「一心欲見仏の心、それが宗教の根幹をなす」とも記している。


発明家で事業家の一郎は、芸術家で信仰者でもあり、故郷に対しての恩を重んじる人だったのである。


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